あえて名前をつけないこと
「感情に名前をつけるのはやめたの」
「どうして?」
私が聞き返すと、彼女はゆっくりと瞬きをした後、宙に浮く言葉を拾い集めて、文章を組み立てる作業を始めた。
「映画を観て感動したとして、その感動は人によって違うでしょ? 登場人物に感情移入したのかもしれないし、物語が面白かったのかもしれない。はたまた、監督に感動したのかもしれない」
「つまり、同じ言葉で表されても、中身が全く違う可能性があるってことよ。カレーパンと思って齧り付いたのに、中には餡子が入ってるかもしれないじゃない。私は曖昧な言葉で分かったふりをしたくないのよ」
「人通りの多い交差点ですれ違うような好きもあるものね」
「積み重ねたものがなければ言葉の真意なんてものは伝わない」
「それなら、私には伝わるんじゃないかな」
「そう思ってすれ違ったら落ち込むじゃない。それに、感情を一つの形に押し込めたくないの」
「デートの帰り道には楽しい気持ちと寂しい気持ちが同居するでしょ? その時感じたものをそのまま受け入れたいのよ。言葉にして記憶すると、楽しい、寂しい、だけど、その時に感じた感情はもっと複雑だから」
「それなら、今の感情は?」
「そんなの名前がつけれる訳ないじゃない」
そういうと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。